環境問題と高校教科書:地理編

ひきつづき、日本の高等学校「地理」の教科書において環境がどのように語られているかを検討してみたい。「現代社会」では、そこで扱われた環境問題が自分の身近な問題でなく世界の問題であり、具体的な危機感を認識することが困難で、そのために環境問題に対してどのように対応すべきかに関する提言のようなものはあまり見られなかったが、この点については「地理」の教科書においても同様のスタンスで扱われている。客観的な概念を網羅している点では現代社会と同様だ。ただ、その描かれ方には幾つか特徴的なものがある。環境問題の理解を働きかけることには貢献しているものの、それを行動へと導く本来の意味での環境教育の理念とは多少のズレを感じる。現代社会と同様に、知識としてのインプットを重視したもので、行動や積極的な働きかけといったアウトプットを促すものとはなっていないようだ。

知識と情報の科学性と客観性を重視しているため、地理教科書は環境問題を知るためには十分な情報量を持つが、環境問題のために行動を起こす方向へと導く切っ掛けにはなっていない。おそらくそれは環境問題を自分の問題として認識させるような工夫が施されていないからではなかろうか。例えば「地球温暖化による影響と危機」という節は次にように始まっている。 

経済発展に伴い、石炭や石油、天然ガスなどの化石燃料を燃焼することで排出される二酸化炭素などの温室効果ガスの濃度が高くなってきた。それにつれて地表の気温も上昇している。とくに20世紀半ば以降の上昇は急激であり、さらなる地球温暖化が危惧されている。

地球温暖化の影響としては、海水の膨張や氷河の融解による海面の上昇、熱波や干ばつ、洪水、暴風雨などの気象災害の激化、高温による農作物の生産減少、マラリアなどの感染地域の拡大、急激な環境変化による生態系の破壊などが想定されている。

                             (p.152)

海面の上昇や干ばつやマラリアといった問題は高校生にはリアルな問題として認識されないかもしれない。実際、この説明のすぐ後の事例で登場するのはモルディブやツバルといった低い標高の国々である。冠水被害の様子は本文欄外の写真で確認することができる。

環境問題は日本の教科書を見る限りでは地球の問題あるいは世界の問題ではあっても自分たちの問題とは映っていないように思われる。この点についてはグローバル化と通じるものがある。われわれは知らないうちに世界のどこかと深く関わっている。しかしその世界とのつながりをリアルなものとして認識しているとは限らない。世界とつながっているという事実を理解しているものの、そこには実感を伴うことがない。言い換えれば、環境問題はグローバルな出来事であり、世界がどこかでつながっている程度の認識しか得られないものなのかもしれない。「直面する地球規模の課題」というタイトルに続く次の文章はそれを示唆するものだ。 

科学と技術の発達により、人類はかつて経験したことのない経済的な発展のなかにいる。日本に暮らす私たちは、おいしく栄養のある食事を楽しみ、遠く海外まで観光やビジネスに出かけ、世界各地で生産された農産物や工業製品に囲まれている。(p.146)

熱帯林の破壊についての記述においても、生物多様性プランテーションといったキーワードと絡めて記されているのはアマゾン川流域に広がる熱帯林(p.150)や、スマトラ島のオランウータンなど多種多様な動植物が生息する熱帯林(p.151)についてである。

国内ではなく国外の問題としての環境問題の特徴を顕著に表したのが人口問題についてである。

都市人口が増加する勢いは、先進国よりアフリカやアジアなどの発展途上国のほうが著しい。発展途上国では、経済活動が活発になると大都市の近代化が進むが、反対に農村部は取り残され、両者の経済的な格差は大きくなっていく。そのため農村部の人々は、より安定した生活を求めて、都市に移動するようになる。短期間に爆発的な人口増加が起きた発展途上国の大都市では、都市計画やインフラストラクチャーの整備が追いつかず、交通渋滞や住宅不足などの問題が多発している。生活環境の悪いスラム(不良住宅街)も形成され、ごみ拾いや路上の商売などで生活している人々も多い。(p.164)                                                                        

発展途上国の人口問題は環境問題とは無縁ではない。それは食糧問題とも関わるからだ。そして食糧不足の原因の1つとなっているのが気象変動を含む環境問題だからだ。

例えばインドの人口はいずれ中国を上回ると言われているが、品種改良や灌漑・肥料の普及によって、食料生産は増大しているが、人口増加を抑えなければ、食料の自給や生活水準の向上は期待できないとされている(p.160)。

しかし同じ人口問題を抱えるデンマークでは事情が異なる。少子高齢化で老人ホームや介護施設の整備、そして育児休業や保育施設の完備、それらのための税収入をどのようにまかなうかなど、社会福祉の問題として人口問題が取り上げられている(p.161)。そのため、デンマークの人口問題からは環境問題の当事者という印象はうかがえない。

これは都市問題についても同じだ。標高の高いメキシコシティは大量の人口を抱え、そこには大気汚染を原因とするスモッグという問題がある。人口爆発によって住宅不足という問題もある。「スラムの劣悪な居住環境」という文からは人口問題と環境問題の大きな関連性をみてとれよう(p.166)。

これに対してロンドンの都市問題には環境問題という危機感が見受けられない。市街地が拡大したことによって空洞化したインナーシティの問題が深刻に描写されているが、そこが抱える問題は環境問題というよりはむしろ高齢者と低所得者層を悩ませる貧困、失業、犯罪、暴動、移民といった社会問題としての認識が濃いようだ(p.167)。

環境問題の当事者はどうしても発展途上国に偏って解釈される傾向にある。それは発展途上国が多くの自然環境を抱えていることとも関連しているだろう。環境問題の当事者としての発展途上国と、環境保全のために知恵を絞る先進国という図式が如実に表れているのが、内容の理解を助けるために教科書欄外に設けられた写真の数々だろう。「現代社会」教科書でもそうであったが「地理」教科書にもその傾向がうかがえる。

アマゾンの熱帯林破壊の進行(p.150)やプランテーションにするために伐採されたスマトラ島の熱帯林(p.151)といった具合に、視覚的に環境問題を訴える手法はインパクトがあるが、海水で冠水したツバルの広場の写真のすぐ下に自転車専用道路を利用するオランダの人々の写真が掲載されているのはきわめて対照的である。環境問題の渦中にある人々には環境保全を考える余裕はないということだろうか。そして日本も環境問題の当事者というよりもどこか遠くの問題として環境問題をとらえている印象を受ける。環境に関する体系的な知識は獲得できるように設計されているものの、「環境の保全に寄与する態度を養う」という学校教育法の理念は十分に達成されていないのではなかろうか。

環境問題の事例として日本が取り上げられることはない。環境問題はあくまでも世界の問題であって日本の問題ではないというメッセージが読み取れる。しかしそんな日本も大きな問題を抱えている。それが自然環境の問題だ。日本の「地理」教科書で日本についての具体的記述に富んでいるのは環境問題ではなく自然環境の問題である。環境問題の章とは切り離された章において日本の自然環境と災害が地理的問題として紹介されている。

近年、ゲリラ豪雨とよばれる、狭い範囲に多量の雨が集中して降る現象が増加しているため、都市での浸水も増えている。(p.192)

多くの高校生学習者が身近に感じるテーマであろう。さらに具体的で他人事ではなく身近な問題として認識されていることを示す記述がある。

川の水が堤防を越えたり、堤防が決壊したりすると、洪水になり浸水の被害が生じる。台風が襲来したときには、豪雨による被害だけではなく、強風による家屋の倒壊、樹木の転倒、果実の落下といった被害も生じる。海岸部に台風が近づくと、気圧の低下と風の吹き寄せによって高潮が生じ、浸水が広域にわたることがある。また、まれに竜巻が発生することもある。(p.190)                                                                                     

そして世界的にも有名な日本の自然災害である「地震」や「津波」についての詳細な記述がこれに続く。日本列島は環太平洋造山帯に属し4枚のプレートが隣接する場所に位置して地震が発生しやすく、火山も多いことが言及されている(p.178)。さらには地震のしくみと津波のしくみに関して1ページを割いて詳細にそのメカニズムがイラストで示されている(p.181)。

1995年の兵庫県南部地震と2011年の東北地方太平洋沖地震については単なる事実記述のみならず詳細な描写が記載されている。ここでは東北地方太平洋沖地震の記述を以下に引用する。

 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震であった。この地震では日本の広域でゆれが観測され、最大震度は7に達した。さらに東日本の太平洋沿岸一帯を襲う大津波を発生させ、死者・行方不明者が1万8000人をこえる大災害となった。
    三陸リアス式海岸では、陸前高田市南三陸町など、海岸の港を中心に発達していた町の市街地が、壊滅的な被害を受けた。また宮古市のように、多くの人の想定をこえる高さ30m以上の津波が押し寄せた場所もあった。砂浜海岸が続く宮城県南部や福島県北部の海浜地域にも、高さ10m程度の津波が押し寄せて内陸まで達し、住宅地や農地がのみこまれた。この際に、福島第一原子力発電所も被災し、放射性物質の放出による災害も生じた。
    三陸海岸では、防潮堤や避難所に指定されていた建物までもが津波の被害を受けた。このため震災後は、海岸近くの低地は商工業用地として住宅の建設を規制する一方で、海から離れた高台に新しく宅地を造成する新たな町づくりが進められている。仙台平野では、海水をかぶった農地の塩分を取り除く作業が行われ、さらに農地の個々の区画を大きくすることにより震災前よりも農地の生産性を高めようとしている。また、海岸近くを小高い堤防のようにはしる高速道路(仙台東部道路)を一時避難場所にした訓練も行われている。                (pp.182-183)

このように地震津波原発といった被災の悲惨さが詳しく述べられていることに、日本が災害当事者であるとの認識が色濃く反映していると言えよう。

地震と関連して火山大国である日本の自然環境を反映してか、火山被害についての言及も地震と同様に多い。例えば1990年代の雲仙普賢岳噴火と2014年の御嶽山噴火、そして今でも活動を続ける桜島についての描写は、地震に関する記述と同様に、単なる事実記述のみならず、それが生活面に与える影響といった詳細なものに至っている。

これまで検証してきた環境問題に対する当事者意識とはまるで異なる扱いが地震津波といった自然災害に対する扱いには見られる。それが最も顕著に表れているのが、どのような被害があるかのみならず、それに対してどのように対策していくべきかが、国や自治体としてと同様に一人一人の課題として明記されていることだ。例えば、災害に備えるために国民がやるべきことが、環境問題に関するこれまでの客観的で科学的な事実描写とは異なったかたちで提言されている。

自然災害の多い日本では、身近な地域で起こりやすい災害について、日ごろから把握しておくことが大切である。そのためには、国土交通省のウェブサイトなどを利用したり、自分の住んでいる地域の自治体が公開しているハザードマップを見ることが有効である。私たちは、自分の命を守るために、身近な地域で起こりやすい自然災害の危険性をしっかり理解し、万が一災害が発生したとしても、被害をより少なくする減災の備えを日ごろからしておかなければならない。(p.198)

さらには、災害時の協力を提起する記述を目にすると、これまでの科学的かつ客観的な事実描写をこえた価値描写に至っているのが特徴的である。

私たちが自分でできること(自助)も多い。例えば、避難所の位置や避難経路をあらかじめ確認しておくこと、地震による転倒に備えて家具を固定することなどの備えも有効である。また、近隣の人たちと日常的なかかわりをもち、住民参加の防災訓練に参加しておくことは、災害が発生した際に住民どうしが協力して助け合うこと(共助)にもつながるだろう。災害時に公助・共助・自助の取り組みが連携できるよう、日ごろから準備しておくことが大切である。(p.197)

こうした価値描写が多く見られることから、日本が自然災害に対しては当事者として教育および啓発に臨んでいることがうかがえる。世界の環境問題を前にしてどこか他人事のような冷静な記述を貫いてきた「地理」教科書も、さすがに身近な自然災害については積極的に関与する姿勢となっているのが、非常に対照的である。

しかしわれわれはここで大きな疑問に気づかされる。地震は環境問題とは異なるのだろうか。教科書の記述を見ていると、地震のメカニズムやその詳細についての描写の中に、いわゆる「環境問題」との関係を示唆するものはどこにもない。教科書の記述を見る限りでは、環境問題とは異なる章を地震を含む自然災害のために設けていることから、地震は環境問題という範疇には含まれない。

では環境問題と自然災害を区別する基準は何であろうか。環境問題における「環境」とは何を意味するかについて、国連をはじめ環境省といった機関は特に明らかにしていない。環境が問題となったその時から「環境」はすでにわれわれの目の前にあったからだろうか。しかし例えば『環境循環型社会白書』が地球温暖化について述べている「二酸化炭素は、化石燃料の燃焼などによって膨大な量が人為的に排出」(p.116)という部分からも明らかなように、環境問題はそれが「人為的」にもたらされるという点に大きな特徴があるということができるだろう。地震が環境問題ではないのは、地震が「人為的」に起こる災害ではなく「自然的」に起こる災害だからであろう。

しかし地震やそれに伴う津波の影響で多量の化学物質やがれきがあふれかえり、その処理の仕方を誤れば汚染問題を生じさせるという意味において第2の被害としての新たな環境問題を引き起こすこととなる。その意味では地震と環境問題は決して無縁なものとも言えない。ただ、因果関係という視点からは地震が原因となって汚染問題を生じさせることはあっても、地震そのものは人為的に引き起こされたものではないという認識があるため、地震は環境問題群の中で論じられることがないだけなのだろう。

ただ、最近になって実は幾つかの地震は人為的あるいは人間活動によってもたらされたという『アメリ地震学会』の報告もある。この報告によると、鉱物採掘やダム建設が原因となって約730の地震が発生したとされる。こういった研究も含め様々な研究によって、今後、環境問題の中における地震の位置づけが変化する可能性もあるだろう。地震が自然災害か人為的災害かによって日本の教科書での環境問題の扱い方も変わってくるかもしれない。ただ今はまだ自然災害という認識であるため、環境問題との取り扱われ方の違いが顕著なだけなのかもしれない。

 


参考文献

『高等学校 新地理A』平成29年、帝国書院

『環境循環型社会白書』平成19年、環境省

アメリ地震学会」'Data Mine' column of the journal "Seismological Research Letters", October4, 2017