社会的距離④:贅沢な、あまりに贅沢な「社会的距離」

コロナウィルスの出現によって「社会的距離」という文化は一気にグローバルなものとなりました。社会的距離の本来の意味が人と人との間を2メートル間隔置くということのみならず、何よりもまず人との社会空間の共有すなわち外出を自粛することも含んでいることはすでに述べた通りです。わたしたちの感覚では、外出自粛は非常に苦痛であるものの、2メートル間隔の社会的距離を遵守することはそれほど困難なものではありません。しかし世の中には2メートル間隔の社会的距離すらも困難な地域があります。

中国の武漢市で最初に発生したコロナウィルスは韓国や日本をはじめとするアジア諸地域とヨーロッパへと拡がり、ついにはアメリカにまで到達しました。少し遅れてアフリカとラテンアメリカでも徐々に感染被害が報告されています。ブラジルで多数の感染者数が確認されているものの、その現況と今後の動向についてはあまり知ることはありません。しかし海外メディアが伝えるところによると、ラテンアメリカをはじめ東南アジアの諸国で今後コロナウィルス被害が拡大すると厄介なことになるそうです。2メートル間隔を置く「社会的距離」という考え方は先進国だけに許された特権だという意見もあります。

先進国と発展途上国の顕著な違いの1つが人口密度ではないでしょうか。比較的人口密度の低い先進国だからこそ2メートル間隔の社会的距離が策として有効であったものの、人口密度の高い途上国では社会的距離は対策としてリアルではないという意見が多いのもうなずけます。1平方キロあたりの人口が15,000人の東京に対し、バングラデシュの首都ダッカでは2.7倍の41,000人となっています。ラテンアメリカに目を移すと、ペルーの首都リマは12,800人と東京よりも人口密度は低いです。しかしここには統計のからくりが潜んでいます。

4月10日付記事「あいまいな表現と具体的な数字のあいだ」でも主張したとおり、統計で目にする数字は確かに具体的かつ客観的ではありますが、ときに現実を見えにくくすることもあります。例えば、ある国全体の識字率は60%でも、都市部では80%で地方部では50%、人里離れた辺鄙な村では0%というところもある。都市部においても、富裕層が暮らす中心部では100%で、収入の半分が水道代で消える都市部郊外では60%だったりします。識字率60%という数字だけからでは見えてこない生活状況というのがあるのです。

リマの人口密度は東京よりも低いですが、東京以上に貧富を含む社会的格差が著しいラテンアメリカにおいては、細かく見ると人口密度の高い地域と低い地域が明確に分かれています。リマ郊外のスラム街の密集度は言うまでもありませんが、比較的中流層が住む地域でも住宅が密集しています。自宅まで直接車で入っていけない住居群がたくさんあります。

そんな住宅群では、店を構えず自宅内に商品を保存して、近隣住民が気軽に窓を叩いて「セニョーラ、石鹸ある?」と要望があったときだけ対応する家が幾つもあります。店頭や看板もないので、よそ者には誰が「セニョーラ」なのか分かりませんが、住民らの間ではどこの家に行けば何が置いてあるということが分かっているようで、とても不思議でした。

政府が実態を把握できない非公式経済というのがありますが、アフリカや東南アジアではそういった非公式な売買が主流で、ラテンアメリカでもかなりの割合となってます。インスタント感満載な市場では人の波をかき分けなければ大きな獲物に辿り着くことはできません。

発展途上国では、スラム街ではない普通の日常がこうやって普通に営まれています。人が集まるところには極端に集まる。集まらないところには集まらない。だから統計上の人口密度では見えてこないコワさがそこにはある。スラム街でウィルスクラスターが発生したら大変なことになると懸念されているのはそのためです。でも正確に言うと、密集エリアはスラム街だけではないのです。確かにそういったエリアは夜になると静まりかえりますが、ひとたび密集状況ができれば、たちまちオーバーシュートが発生します。

こういった人口密度の高い状況が日常生活の中で頻繁に発生するような地域では「社会的距離」という概念はまったく通用しないでしょう。そうです、「社会的距離」というグローバル現象は「概念」に過ぎないのです。密集した状況が日常茶飯事な地域では2メートル間隔の物理的距離は不可能なのであります。いまのところ「社会的距離」はグローバルスタンダードの地位を謳歌していますが、これが先進国的な発想であるということにわたしたちは気づかされるのです。パンがなければケーキを食べればいいじゃない。感染したくなければ2メートル間隔を置けばいいじゃない。社会的距離という「概念」は、消費を過度に牽引する先進国の発想であって、あまりに贅沢な文化なのであります。