100%濃縮還元ジャズ

ボクはフロリダに住んでいた頃は毎日のようにしぼりたてのオレンジジュースやグレープフルーツジュースを飲んでました。とても美味しかったです。その美味しさが当たり前になってました。帰国して100%オレンジジュースを飲んだときのショックは今でも記憶に新しい。そのときはじめて「濃縮還元」の意味を知りました。フロリダのしぼりたてのオレンジジュースをそのまま日本に輸送するには経費がかかるからギュッと絞って(すなわち濃縮して)から輸送して日本で再び水を加えて元に戻す(すなわち還元する)のです。でも還元したオレンジジュースには濃縮する前の美味しさがないんです。たまにですが、しぼりたてのトロピカーナ社のオレンジジュースを目にすることがありますが、高いです。フロリダ産しぼりたてのオレンジジュースはやはりアメリカ国内でしか日常的に飲むことができないのでしょう。

音楽にも同じことが言えないでしょうか。その昔の音楽は何ものにも縛られていませんでした。誰かが楽器で音楽を奏でながら1つの作品ができあがります。でもそれは何となく記憶するしか何度も再生する手段がなく、その音楽は作品として正確に伝達されることはなかったみたいです。当時はまだ音楽の個性というものを的確に伝えることよりもむしろ演奏が容易で記憶しやすい音楽を伝達することが常に優先されていたようです。だから当時は楽器が奏でる音楽を自分の体できちんと受け止めるような身体習慣があったのだと思います。

ところが近代になって楽譜が発明されてからは、音楽が作品として伝承されたり再生されたりすることが可能となりました。緻密な計算による音楽の誕生ということでしょうか。あるいはあらゆるものの合理性を生み出した近代に運命づけられた結果なのでしょうか。音楽が聴覚から視覚の世界へと移行したのです。あるいは時間的に配列された音の世界が紙面上に空間化されたとも言えるでしょう。音楽は「時間的」な軸のうえで「聞く」ものから「空間的」な軸のうえで「見る」ものへと様変わりしました。もちろん今でもわれわれは音楽を「聞く」ことはありますが、それは楽譜や編集といった緻密な手段によって徹底的に論理のディスクの中に閉じ込められたものなのであります。

ボクはニューオーリンズでディキシージャズの演奏を目の前で見たときに、これが濃縮される手前の音楽なんだなと感じました。何か即興的というか楽器で会話を交わしているうちに次第に音楽らしくなっていく様子が非常に原初的だなという印象を得ました。メキシコでマリアッチ楽団がオープンテラスの客席で演じる姿にも惹かれました。ジャマイカでレゲエの演奏を見たときにも同様の感覚を得ました。それぞれに共通しているのですが、コンサートホールやライブハウスのように席が指定されていたり隣の客と体が触れ合うような、まるで囚人として拷問のごとく音楽を聞かされているような感覚ではなく、両手両足を自由に伸ばしながら身体を音楽にすり合わせることが許されるような自由な感覚でありました。原初的な音楽との触れ合いとはこういうものだったのではないかと。

だからCDやパソコンやスマホから流れる音楽にはいつも何か疎外感のようなものを感じています。本来は人が心を解き放つことを促すはずの音楽が、まるで缶に詰められたイワシのように生命感や躍動感を失い、商業的戦略の一環としてコンパクトに濃縮された形態でわれわれの耳に入る頃には濃縮される前の状態とは異なった音のかたまりとなった「音楽」として還元されるのであります。しぼりたての音楽とはほど遠い、機械的に凝縮された単なる音のつながりの中で何かが化学反応を起こし、われわれはその機械音を音楽として聞いているのだと言い訳するために何リットルもの水を注ぎ込みながら濃度を100%に戻すことに躍起になっています。ニューオーリンズで聞いたジャズバンドのCDを帰国後に聞いた時のことを今でも覚えています。それは濃縮還元100%のジャズでした。でも決してしぼりたてのジャズではない。

かといって、目の前で聞く音楽だけが本物であるとか言うつもりはありませんし、同時に、目の前で聞く音楽は全て本物であるというつもりもありません。しぼりたての音楽というボクの着眼は決してライブ感に閉じ込めようとする試みではありません。それゆえに、町中を走る乗り合いバスの中で聞いたサルサは決してライブ音源ではなく運転手のラジカセから流れるものであるにもかかわらず、それはボクの中では濃縮還元されていない「しぼりたて」という恩寵にあずかるもののように思えてならないのです。もしかしたら濃縮還元というプロセスを経ない音楽のつらなりというものがサルサという音楽自体の中に備わっているのかもしれない。そんな期待がボクを乗り合いバスへといざなうのです。あれはきっと単なる乗り合いだったのではなく、饗宴のひとコマだったのかもしれません。

これはあくまでもボクの主観を言葉に昇華された手段によって電磁的記録媒体に濃縮してみなさんの手元に届くものではありますが、みなさんがこれを読む頃にはみなさんがみなさんの主観によって当該内容をみなさんなりに還元していただくことによってしかコミュニケーションが成立しないということを念頭に置いたうえで、ボクなりのしぼりたてのメッセージが届くことを願ってやみません。