サルサは「リズム」ではない

サルサとはいったい何なのか、それを説明するのはとても難しい。フランス人ならこう言うだろう。“Ça se sent, ça ne s'explique”.....つまり、自分で感じなければ分からない、ということだ.....サルサは「リズム」ではない。「コンセプト」なのだ。              by Willie Colón(サルサミュージシャン)

ビートに合わせて踊るうちに我を忘れ、そこに癒しをおぼえ、しだいに、無言で抱擁し合う男女。肌の温もりが生み出すリズムは、同伴者と自分をつなぐ糸を紡ぎ続け、リズムはやがて遠くの他者へと伝わる。サルサは、身体に加える調味料(サルサとはソースの意)のようなもの。サルセーロ(サルサ・ミュージシャン)であるウィリー・コロンは、サルサの源泉を「サルサ」の中に見出そうとしている。しかし身体的サルサは、人々にとっての文化的なよりどころとなり、政治的な戦略ともなる。物語は継承され、リズムは進化する。その意味で、サルサは音楽的、文化的、社会的概念とも解釈されよう。サルサが「リズム」ではなく「コンセプト」であるというコロンのメッセージは、身体性と文化性という二つの異なった局面を同時に言い表すものである。サルサが「リズム」ではないというのは、サルサが単なるリズムであるということを否定して、その文化性をも同時に肯定しているということではなく、サルサがリズムであるということを正面から否定するものとして文字通りに解釈することができよう。「感じること(Ça se sent)」に説明を求める一方で、サルサが「リズム」であることを否定するという一見矛盾するコロンの主張を、われわれは、「リズム」という概念に宿る機微を理解することが要請されるものとして、真摯に受けとめなければならないのではなかろうか。

先にも述べたとおり、晩年のルフェーヴルは、リズム分析的アプローチの洗練を試みていた。主著『リズム分析の要素/リズム認識序説』(1992)は、邦訳のみならず英訳も出版されていないため、原典以外にその骨子を垣間見る術がない。しかし、『空間の生産』およびそれ以前の文献には、リズムの要素が豊富に散りばめられているようにも思われる。一つの解釈として、リズム分析から、あるいはリズミクスの観点から翻って「社会的空間」を読み返したならば、空間の「別様な」解釈も施されうるのではなかろうか。エアポートが演出する空間とは異なる、旅人の身体から滲み出る景観を、このリズミクスという方法論から捉える試みの予備的考察として、ここでは、そもリズムとは何「である」か、そして、何「でない」かを、L.クラーゲスの議論の要旨を交えながら論じてゆきたい。

1 空間の三つの局面

1.空間的実践。

社会の空間的実践は、社会の空間を分泌する。それは弁証法的相互作用において、社会の空間を提起し、その空間を前提とする。空間的実践は、空間を支配し領有するにつれて、ゆっくりと、確実に、空間を生産する。分析的視点からすると、社会の空間的実践が発見されるのは、その空間の解読を通してである。

では新資本主義においては、いかなる空間的実践がおこなわれているのであろうか。空間的実践は、日常の現実(時間の利用)と、都市の現実(労働の場と「私」生活の場と余暇の場をたがいに結びつける経路およびネットワーク)とを、知覚された空間の内部において密接に結びつけている。この結びつきは逆説的である。というのも、空間的実践はそれが結びつけているこれらのさまざまな場の間もっとも強度な分離をふくみこんでいるからである。この社会の各成員が特殊な空間的能力と実践力をもつかどうかを評価しうるのは、ただ経験的にのみである。それゆえ「近代の」空間的実践を定義することができるのは、郊外のHLM[低所得者住宅]の住民の日常生活である。HLMの例は極端ではあるが、重要な事例である。高速道路や航空輸送政策も見逃すことができない。空間的実践は一定の凝集力をもたねばならないが、だからと言って首尾一貫している(知的に練り上げられ、論理的に構想された、という意味で)わけでもない。

2.空間の表象。

つまり思考される空間。科学者の空間、社会、経済計画の立案者の空間、都市計画家の空間、区画割りを好む技術官僚の空間、社会工学者の空間、ある種の科学的性癖をもった芸術家の空間、これらの空間はすべて、生きられる経験や知覚されるものを思考されるものと同一視する。(《数》についての物知り顔の思弁―黄金分割、測定基準、キリスト教信仰の規範についてのおしゃべり―はこの見方を永続化しがちである。)これが、社会(あるいは生産様式)における支配的な空間である。空間の諸概念は、言葉による記号の体系へと、それゆえ知的に練り上げられた記号の体系へと向かう傾向にある。

3.表象の空間。

これは、映像や象徴の連合を通して直接に生きられる空間であり、それゆえ「住民」の、「ユーザー」の空間である。だがそれはまた芸術家の空間でもあり、おそらくは作家や哲学者といったもの書きのひとびとの、そしてひたすらものを書こうと熱望しているひとびとの空間でもある。これは支配された、それゆえ受動的に経験された空間であり、想像力はこの空間を変革し領有しようとする。この空間はその諸物を象徴的に利用するがゆえに、物理的空間をすっかり覆いつくす。このようにして表象の空間は、非言語的な象徴と記号の多少とも整合的な体系へと向かう傾向にあるということができよう。    

                            [Lefebvre, 1974=2000: 75]

さて、このような局面から構成される社会的空間は、それぞれが独立したものとして把握されるものではなく、互いに浸透し合い、重なり合うものとなる。ルフェーヴルは、古典数学で唱えられる均質性にその解を求めず、空間構造をミルフィーユの多層性として捉え、流体力学からの空間的アプローチを試みる。

流体力学における小運動の重なり合いの原理が教えてくれるのは、規模・広がり・リズムが重要な役割を演ずるということである。巨大な運動、広範なリズム、大きな波は、すべてたがいにぶつかり合い、たがいに妨害しあう。だがより小さな運動はたがいに浸透し合う。        [ibid.: 147-148]

すなわち、ルフェーヴルが描く「空間(l'espace)」とは、実体的な「空間(space)」ではなく、景観における諸事物の経験的な配置と、態度や習慣的諸実践とが社会秩序を織りなすメタフォリックな「空間化(spatialisation)」として理解されねばならない[Shields, 1999: 154]。

ところが、「空間的実践」と「空間の表象」の区別は容易であるにもかかわらず、各々が「表象の空間」とはいかにして峻別されうるかに関しては、その説明がきわめて抽象的である。表象の空間が「住民」や「ユーザー」のための空間であるとはどういうことであろうか。空間的実践と表象の空間がどのように区別されうるか。このことに関して、ルフェーヴルは身体を事例に用いている。社会的実践は、身体の利用を前提とする。身体が知覚されるものであるという意味において、社会的実践は身体的であると言える。身体の表象とは、科学的知識が蓄積されたものとして理解されよう。これらに対して「身体の生きられる経験」(つまりそれ自体が表象の空間であるわけだが)は、文化の介入によって、象徴と幻想を伴ったものとなる。「経験される心臓(不快や病にいたるまでの)は、考えられ知覚される心臓とは異なっている」[Lefebvre, 1974=2000: 84]。

ルフェーヴルは、三つの空間および三つの身体による三重性の弁証法によって、社会的空間と社会的存在(主体)を考察するが、「表象の空間」および「生きられる経験」の様態は決してつまびらかなものではない。次節では、生きられる経験を紐解くための装置として「リズム」という概念の導入を試みる。

2 リズム(律動)とタクト(拍子)

リズムは、音楽を構成する三大要素の一つとして知られている。メロディーが空間的な広がりを想起させるのに対して、リズムはそのような空間的な自在性を抑制させる時間的なものとしてイメージされることがある。あるいは、リズムを基盤とするメロディーには恣意性が感じられるという言い方もある。リズム、メロディー、ハーモニーという分類からは、しかしながら、リズムが有す「奥行き」の説明が困難なものとなる。それは、リズムが、広義に解釈された場合、時空間すべてにかかわり、われわれの日常のあらゆる側面を支配するからである。

リズムとは、本来、ギリシア語のrheein(流れる)に由来する。それは、文字通りに解釈するならば、「持続性」を捉える概念として位置づけられる。存在するものすべてが時間的推移からは逃れられないことを意味する「万物流転」という表現は、そのことを顕著に表している。

しかし「流れる」というだけでは、あるいは持続性というだけでは、リズムの意味規定は十分ではなかろう。L.クラーゲスは、次のような事例でもって、持続性によるリズムの定義を疑問視する。つまり、われわれは黒板が平面的な持続性を示しているからといって、黒板をリズム的であるとは言わないし、持続的に加速する落下運動をリズム的であるとも言わない[Klages, 1923=1971: 28-29]。

クラーゲスは、リズムの概念をより明確にするために、タクト(拍子)との比較考察をおこなっている。これによって、通常その概念の使用される領域が多方面にわたり、理解のされ方が一様ではないリズムの多くが実はタクトであったという指摘がなされている。クラーゲスによれば、リズムを考察する場合、タクトの仮現性に留意しなければならない。われわれは日常生活において、経験可能なものの境界を明確にするが、境界づけられたものはリズムではなくて、たんなる系列か、もしくはタクトにすぎない。ここでその事例として挙げられるのが、時計の音が現象の分節化によってタクトとなるというものだ。われわれが同一音の連続を耳にするとき、個々の音は強弱(あるいは弱強)の音群として聞こえる。聞き手はこの音系列のなかに、客観的には存在することのない強弱(弱強)の周期的交替音を聞きとることとなる[ibid.: 15]。つまり、リズムをタクトに変えるのは、われわれ自身なのである。

「霊魂」と「精神」を対立的に見るクラーゲスは、リズムは生命の生きられる原理としての霊魂に(生きられる経験として)対応するもので、タクトは概念的で恣意的な精神に(表象として)対応する近代合理的なものであると解釈している。

リズムは―生物として、もちろん人間も関与している―一般的生命現象であり、拍子はそれにたいして人間のなすはたらきである。リズムは、拍子が完全に欠けていても、きわめて完成された形であらわれうるが、拍子はそれにたいしてリズムの共働なくしてあらわれえない。[ibid.: 22]

このことは、メトロノームにしたがった正確な演奏や、韻律にしたがって朗読された詩句や、特定の目標にしたがったマスゲームなどが、リズム的であるというよりもむしろタクト的であるということを意味する。リズムはむしろ、メトロノームの入る余地のない演奏や優美なメヌエットの中に潜むものである。

合理的で恣意的なタクトは分節化されるため、そこには始めと終わりが存在するが、躍動的なリズムは常に無限な運動のプロセスにある。それは、境界づけられない波のようなもので、あるのは波の谷と波の山だけである。クラーゲスは、思考対象に関係する判断を「把握的判断」とし、直観世界に関係する判断を「指示的判断」とした。「把握的判断の役割は数量概念においてきわめて支配的であり、指示的なそれは質概念において支配的である」[ibid.: 33]。

質概念としての波には明確な分節は存在しないし、前後の波との関係もけっして同一的ではない。自然界のあらゆる現象はすべて類似したものを延長させ、その推移のうちに絶えず繰り返し新しいものを生み出すのみである。それでも、分節化された一群の間には類似性が確認される。同じようで異なっているというのは、この周辺の類似性が、つまり、一つの音とその前後の音に確認される類似性が誇張されているからであろう。タクトは現象を恣意的に反復し、リズムは過ぎ去ったものをただ更新するだけである[ibid.: 57]。「生産物」として完成されたCDの音楽は反復されたものであるのに対し、「作品」としてその都度演奏される音楽はただ類似性が更新されるのみとなる。演奏はその度ごとに異なったリズムを奏でる。織りや刺繍で装飾が施されたウイピルには工場製のものには見られないリズムの力が宿るというのも、それが分節化を拒絶し、リズムを更新して新たな「移調」を繰り出すからに他ならない。

3 意識と体験

クラーゲスは、人々の体験の中で「生きられる」現象は、無意識状態になることによって中断されることがないこと、そして経験的*1意識は無意識状態になることによって途絶え、覚醒によって再び始まることを主張している。

精神的活動状態の体験としての拍子の体験は、覚醒させ、覚醒状態を保つ。それに対して、リズムの体験は、もしそれがじっさいにいわば意識下でなされるとすれば、その支配力が増せば増すほど、すべての緊張を解き、それゆえ、とりわけ睡眠状態に導きうるだろう。[ibid.: 48]

リズムとはつまり、分節化された合理性からの弛緩であり、解放であり、開放である。それゆえに人々は「踊る」のである。そしてリズムの空間は、ルフェーヴルも指摘するように、すべて身体から始まる[Lefebvre, 1991: 405]。しかし霊魂と精神の関係は、それほど明確に「分節化」されるものではない。覚醒されたタクトの体験から意識が奪われてリズムの世界に誘われることをわれわれはよく知っている。われわれの「心を襲い、捉え、感動させる度合が強ければ強いほど、日没や恋人や交響曲のイメージはいっそう心に充満し、そのイメージはわれわれの思考や意志の対象になりにくくなる」[Klages, 1923=1971: 50]からである。

クラーゲスは身体的実践の中にリズムを見出しているが、E.ホールは、そのような身体体験的リズムの調和をもたらす「共調動作(synchrony)」が汎人類的な現象であるとする[Hall, 1976=1993: 87]。ホールの事例によれば、校庭で各自好き勝手に動いている子供たち全体が、やがて、一定のリズムに共調するという[ibid.: 91]。彼らは、無意識のうちに身体の楽譜から生み出されたビートに抱かれながら、共調の旋律を繰り出していたのである。

しかしリズムは単に身体的実践によって説明されうるものではなく、それがどのように身体と関わるかというプロセスによってより明確になる。例えばホールは、ナバホ族が映画を製作する現場の観察から、彼らの視角感覚が映画の編集過程に及ぼす影響に注目している。通常は、断片的に思考されたものを統一的な全体にまとめあげることによって映画が制作されるため、編集というプロセスが重要な役割を果たすが、ナバホ族の場合、映画全体の「流れ」を前提として撮影がなされるため、編集のプロセスは各断片の思考において同時になされているという[ibid.: 99]。

身体を伴いながらも、そのプロセスにおいて多様なイメージの世界を生きられる経験においてリズムは確認されるのかもしれない。

「生きられる経験」にとって空間とは、絵画の構図にたとえられるようなたんなる「枠組み」でもなければ、そこに注ぎこまれるものは何であれ受けとめるために設計された中立性の形式や容器でもない。空間、それは社会形態学である。つまり「生きられる経験」にとっての空間とは、生命有機体にとっての形式それ自身と同じものである。[Lefebvre, 1974=2000: 156]

編集され完成された理性的音楽の中にはもはやリズムは宿らない。リズムはむしろ、「生きられる経験」としての身体的実践の中に、あるいは、表象の空間の中に繰り出されるものではなかろうか。「リズム」と「理性」が対概念であるというクラーゲスの主張は、「分別のない(neither rhyme nor reason)」という表現からも支持されよう。ルフェーヴルの『空間の生産』での記述に整合性を欠いている一面が見られるというのも、記述が「編集」されなかったという事実によって説明されうる[Shields, 1999: 165]。

サルサは「リズム」ではなく「コンセプト」なのだ、という冒頭におけるコロンの主張は、ジャンルとしてのサルサ、概念化されたサルサ、完成されたサルサをリズムと等価なものとするのではなく、サルサそれ自身の中で「生きられる」ことを経験するという解釈が支持されうる。「こまを回す(bailarle)」ことは「踊り(bailar)」のメタファーで表現される。何かを自分に重ね合わせることは、踊ることの概念化ではなく、踊ることそれ自体(クラーベのリズム)に等しいものとなる。したがって、サルサにはリズムが宿る(Tiene un ritmo)が、サルサはリズムではない(No es un ritmo)ということが言える。境界づけられたサルサはもはやサルサではない。

サルサには境界は無いのだ(Salsa no tiene frontera)』[オルケスタ・デ・ラ・ルス]。

サルサの中味を知りたいなら、メロディーやインスピレーション、頭の中を捜してもだめだ。サルセーロになるには、気持ちが大切なのさ(hay que tener sentimiento)by Willie Colón

 

*1:体験(Erlebnis)は無意識的生命現象であり、経験(Erfahrung)は意識的先進作業であると考えられている[杉浦、1971: 110]