一億総罪人社会

数年前に、東京都知事である舛添要一氏が税金無駄遣いでいろいろと批判されていたのを覚えてますでしょうか。あの時ずっと不思議だったのは、みんな舛添氏を批判する資格があるのかなあということです。桁違いとか規模が異なるという指摘はさておいて、節税と脱税を混同している人は多いのではないでしょうか。事業や営業に関連のない領収書に見覚えはないでしょうか。

税金を無駄遣いするというのは、国民から集められた税金を本来存在すべきところから当該無駄遣いのために税金を移すことによって、本来存在すべき場所に穴をあけることを指します。脱税して納税を逃れるというのは、国民から集められることで本来存在すべきところに当該脱税により納税を逃れることによって、本来存在すべき場所に穴があいたままの状態にすることを指します。そこにあったものを奪うことと、そこにあるべきものを納めないこと。その違いでしかありません。

殺人に喩えるならば、人を殺すという「作為」による死の責任と、死にそうな人を助ければ助かるのに助けないで見殺しにすることによって結果的に人を殺したと問われる遺棄致死という「不作為」による死の責任。作為であるか不作為であるかが異なるだけで「殺した」という事実に違いはありません。「やった」か「やらなかった」か。「やった」が悪くて「やらなかった」が必ずしも良いとは限らないですね。

でも舛添氏は東京都知事であった、すなわち公務員であったわけだから税金の無駄遣いは許されないという支離滅裂な反論をする人がいますが、公務員が「作為」によって税金に手をつけることが許されなくて、公務員以外あるいは公務員が「不作為」によって納税しないことが許される根拠って何でしょうか。公務員が「全体の奉仕者」であるからというのがその根拠なのでしょうか。仮にそうだとして、「全体の奉仕者」が税金に手をつけてはいけないという根拠がどこにあるのでしょうか。そしてそのことによって全体の奉仕者「ではない」国民が不作為によって納税を逃れることを正当化できるという根拠がどこにあるのでしょうか。

脱税がなぜ法に触れるかというのはそういうことです。世の中を見渡すと、納税を逃れること以外にも、本来あるべき場所にないお金が沢山あります。不当に取得されたお金はすべてそれに該当します。釣り銭を本来よりも多く受け取った客がそのことに気づきながらそのまま持ち去った場合には「不作為」の詐欺罪が成立します。仮にその時には気づかず後で気づいたのにも関わらず返金しなかった場合には「不作為」の占有離脱物横領罪が成立します。

そして、他人あるいは自分が属する団体が本来は受け取ってはいけないものを受け取ったことを知りつつ見て見ぬフリをするのは「未必の故意」、あるいは大したことないだろうくらいの認識があった場合には「認識ある過失」が問われ、「詐欺の幇助罪」が成立します。公共の場で見て見ぬフリして自衛を貫いても、後で自問自答して「本当にそれで良かったのか」と後悔のないようにするにはどうすべきでしょうか。答えは2つ。闘うか、あるいは開き直るか。開き直って舛添氏を擁護するのも悪くないかもしれませんね。