力と技と美しさ

一昨年の国体(国民体育大会のこと)ですが、福井県で開催されたんですけど、そのスローガンが「織りなそう、力と技と美しさ」となっていました。国民的?な大会であるがゆえ「力と技」のみならず「美しさ」もまた要求されるのでしょうか。スポーツに感動を覚え、その感動をもたらす要素の1つである「美しさ」を称えるのは、今ではすっかり「あたりまえ」の光景となりました。でも、改まって意識的に「美しさ」を表現することは決して容易なことではないと思います。いったい「美しさ」って何なんだ。

「美しさ」が人に感動を与えるというのは分からないでもない。ただ、スポーツにおける「美しさ」がいつ頃から語られるようになったか、そのあたりの経緯を調べてみたくなりました。フィギュアや体操のように美が評価基準になっているスポーツがありますよね。また、それ以外のスポーツでも「美しさ」が織りなされた事例はあります。例えば剣道では無駄の無い動きに「美しさ」が見出されます。なぜ放物線を描くホームランや、連投の球児や、サッカーの個人技といったものが美しいのでしょうか。

美しさや芸術性を説明する試みはこれまでにもなされてきました。哲学においては、これまでに2つの代表的な考え方がありました。美というものを、事物や事象が備える固有の性質であるとする「存在論的アプローチ」というのですが、それと、美は事物に帰属するのではなく、それを知覚し、認識する人間主観が、事物や事象に付与する性質であるとする「認識論的アプローチ」です。

認識論的アプローチで「主観だよ」と言ってしまうのは簡単です。だからでしょうか、ちまたでは様々な科学的な試みもなされているようです。黄金比による数値化がその代表でしょう。それ以外にも調べてみたら、東京大学で研究されている「魅力工学」というのがあります。人工知能を使って、言語化しにくい魅力を数値化し、それを強化していくというものだそうで。人工知能を使って女性の顔の魅力度を判定するというものです。

でもそういった数値化では「美しさ」の説明を補いきれていないように思うのです。数字では表せないものもあると思うのです。「美しさ」の基準が異文化間で異なるし、同一文化間においても、好みによって「美しさ」の判断は人それぞれだというのが何よりの証拠だと思います。ではやはり「美しさ」は「主観」なのかというぐあいに堂々巡りの今日一日でした。まだまだ知恵を絞りながら言葉にしていく余地が大いにあるとは思うんですけどね。調べたら、数値化を試みる研究は沢山ありますね。でも、言語化を試みる研究は見たことがありません。人がやらないことに価値を見出すのが研究というものだと思うので、誰かがやれば良いのだとは思いますか。

まあしかし半端ないですけどね、美しさに触れるという意味で芸術学、美とは何かという意味で哲学、美しさの体現という意味でスポーツ科学心理的限界と生理的限界に触れるという意味では運動生理学、身体美を語るという意味では身体論。それぞれが交錯するのだと思いますね。大仕事ですよ。考えてみたら、このテーマは20年くらい前から度々考えていたと思います。難解だけど魅力的なテーマではあります。「美しい」って何なのでしょう。