これでいいのか動物愛護

ある友人の愛犬が最近亡くなりました。ボクも愛猫アルちゃんを9年前に亡くし、いまだにペットロスというのを克服できないでいるので、彼の悲しみはよく分かるのです。ところが彼とのやり取りの中で、以前からずっと疑問に思っていることが再び蒸し返されてしまい、最近いろいろと考えています。ペットって何だ。動物愛護って何だ。

愛するペットが「物」として考えられている事実を飼い主はどう考えるべきでしょうか。かつてはペットが傷つけられるような被害に至った場合に「器物損壊罪」が適用されていました。ペットが「人」ではないことから、「人」ではない以上は「物」であるという解釈なのでしょう。でもその後、「動物愛護法」が定められ、ペットを含む一部の動物が保護の対象となりました。ただし保護の対象となったとはいえ、ペットが「物」から「人」へと昇格したわけではありません。人以外の全てはやはり「物」なんです。

ところで、動物愛護法が保護の対象とする動物には、イヌやネコといった定番のペットだけではなく、ウシやブタやニワトリも含まれているというのをご存じでしたか。牛丼やカツ丼や親子丼を口にすることが許される一方で、ウシやブタやニワトリを愛護しなければならないという法律が存在するのです。矛盾しているように思われるけど、その矛盾を解消するためなのかどうかは分かりませんが、動物愛護法では「業者」がこれらの動物を処分することが許されています。そのような法律の例外規定によって、私たちはウシやブタやニワトリを愛護しながら、同時に牛丼やカツ丼や親子丼を味わうことが許されるのです。

業者に許される殺処分はウシやブタやニワトリといった食用動物だけではなく、イヌやネコといったペットもその対象となります。毎年10万匹以上のペットが殺処分されてます。殺処分を担当する業者は保健所の「動物愛護センター」だそうです。とても皮肉な現状です。動物を愛護するからこその殺処分という言い分なのでしょう。つまり、ある動物が愛護されるべき対象となるか殺処分の対象となるかは、状況とその動物の運命に委ねられることになる。かつて中国で犬が売られているのを見ました。店主に尋ねたら「食用でもペットでも好きにして」とのこと。そこにいた犬の運命は買い主or飼い主に委ねられるのです。人間にとって必要でなければ法律にもとづいて殺処分される。必要であれば法律にもとづいて保護されるか、あるいは食用のために必要とされれば殺処分される。

ペットを含む動物の扱いについては決して一貫性があるわけではありません。私たちは倫理的感情的な判断基準と法的な判断基準という、別々の基準で動物をとらえています。「物」であるかどうかの議論も含め、ペットをめぐる問題にはまだまだ課題が多いようです。食用あるいは殺処分として認められる動物の境界線をどこで線引きすればいいのでしょうか。殺処分が認められる法律上の根拠にも疑問な点がまだまだあります。苦痛を背負った人間の生命については安楽死が問題になります。でもペットの安楽死に関しては、保健所の殺処分も含め、人間ほどは議論に時間が割かれてはいないですよね。欧米では「ペット」ではなく「アニマルコンパニオン」という言葉が使われてます。欧米人の方が私たちよりも動物と真摯に向き合っているような気がします。おそらく彼らが狩猟民族であることと少しは関係があるのかもしれませんね。狩りには伴侶となる動物が必要ですから。

ところで、坂東眞砂子という直木賞作家をご存じでしょうか。タヒチに住むこの作家が日本経済新聞に投稿した「私は子猫を殺している」というエッセーが14年前に発表されました。当然ですが、ネット炎上しました。タヒチにある自宅の隣の崖の下の空き地に、子猫が生れ落ちるとすぐに放り投げているという内容です。以下、一部ですが。

「猫に言葉が話せるなら、避妊手術など望むはずがないし、避妊手術を施すのが飼い主の責任だといっても、それも飼い主の都合。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずに済む。そもそも、愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての『生』とは、人間の干渉なく、自然のなかで生きることだ。人間は、避妊手術をする権利もないし、子猫を殺す権利もないが、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない.....自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」

坂東氏は6年前に55歳の若さで亡くなりました。舌癌だったそうです。坂東氏のエッセーには賛否両論ありました。とは言っても、圧倒的に批判が多かった記憶があります。どんな主張をするにしてもボクは敬意を持って接するようにしています。ただ、坂東氏は全く敬意に値しない。結局は亡くなってしまったけど、舌癌克服のために治療を受けていたとのこと。

医療の発展のためには動物実験が不可欠であり、動物実験を経て臨床試験や治験に至り、そしてようやく「治療」に至ります。「人間の干渉なく自然の中で生きるのが動物の生である」というのであれば、なぜ舌癌治療を受けたのでしょうか。自分の中の正義を貫いてほしかったです。

それはさておき、子猫殺しに対してヒステリックになる人々はカツ丼や牛丼や親子丼を食べていることをどのように正当化するのでしょうか。まあ、この手の疑問は昔からありました。線引きはどこにあるのかと。答えを先取りしてしまうと、ボク個人の意見としては、ボクの中にある快不快といった感情に触れるかどうかということでしょうか。それ以外に答えは見つかりません。快不快から導き出される答えが先にあって、その後に理屈が続くのではないでしょうか。理屈によって獲得した結論によって悲しくなったり嬉しくなったりするわけではないと思います。問題はその理屈をどのように組み立てるのかということではないでしょうか。坂東氏はそれに失敗しました。

殺せる動物とそうでない動物の線引きをどのように設定すればよいのか。動物を殺すことに賛否両論あっても、昆虫や植物を「殺す」ことには躊躇しないのはなぜか。その一方で、極端に生命を保護する主張もあります。「土地倫理学」というものがあって、土地つまり生態系そのものが人格と同じ権利の主体であると考えてます。そんないろんな主義主張がありますが、それでもうまいこと自分の着地点を見出せないというか、なかなか処理できないものですね。

捕鯨をめぐる議論も一筋縄ではいかないようです。種の絶滅を防ぐことを理由に捕鯨に反対する人がいます。絶滅しなくても、とにかくあらゆる種を殺してはならないと考える人もいます。そして、結構多いのが、クジラのような高度な知能を持った動物には人間と同じような生存権があるという「生存権能力主義」というやつです。この場合、保護の対象は種としてのクジラではなく、個体としてのクジラです。言い換えれば、高度な知能を持たない生物は食べてもいいということです。

イルカに対してもひんぱんに言われることですが、知能のある動物であることを理由にするのは、実は非常に危険な感じもします。この手の議論でよく喩えられるのが「人間以外の動物も幼児も発育の遅れた人間も同類である」とか「動物実験が正当であるならば、その動物よりも鈍感な状態にある人間にも実験を行ってよいとすべきだ」とか「チンパンジーを殺すのは、重度の障害者で人格ではないものを殺すのに比べて悪い」といった主張です。知能を保護の条件とすると、地球上のどれだけの人々に生存権が保障されることになるのでしょうか。

同様の指摘は脳死問題についても当てはまります。脳が死んだら死んだも同然という考え方は、一歩間違えると、お馬鹿さんは生きるに値しないということを意味します。「バカは生きる資格ないですか?」と直球質問されると、ほとんどの人が否定します。でも、捕鯨問題や脳死問題というフィルターで隠されると、たいていの人は知能重視するのです。主義主張に対する正義を貫くって難しいですね。