安全に王道なし

海外は危険で日本は危険ではないとは言い切れない。海外にも安全な地域がありますし、日本にいても危険な目に遭うことがあり、毎日のように殺人事件は起きています。次に、アメリカは危険でアメリカ以外の例えばカナダ等は危険ではないとは言い切れない。アメリカにも安全な地域がありますし、アメリカ以外の例えばカナダ等にいても危険な地域があり、毎日ように殺人事件は起きています。そして、よりピンポイントなものとしてニューヨークやロサンゼルスは危険でボストンやコロラドは危険ではないとは言い切れない。ニューヨークやロサンゼルスにも安全な地域がありますし、ボストンやコロラドでも毎日ように殺人事件は起きており、ボストンに関してはボストン茶会事件に始まり有名な事件が多数あり、2013年のボストンマラソン爆弾テロ事件は記憶に新しいものですし、1996年のジョンベネ殺害事件が起きたのもコロラドの田舎町です。続いて、さらにピンポイントなものとして、ロサンゼルスのダウンタウンやサウスセントラルは危険でサンタモニカやアーバインは危険ではないとは言い切れない。ダウンタウンやサウスセントラルにも安全な地域がありますし、治安が良いとされるサンタモニカでは2013年に無差別銃撃事件が起き、全米一治安が良く人工的な自然が不自然なまでに住人を温かく包み込むアーバインでも元警官による銃撃事件が起きました。では、どこにいれば安全なのでしょうか。

統計的には、日本よりも海外の方が危険で、カナダよりもアメリカの方が危険で、ボストンやコロラドよりもニューヨークやロサンゼルスの方が危険で、サンタモニカやアーバインよりもダウンタウンやサウスセントラルの方が危険です。あくまでも統計的には.....。

たとえ科学的な統計に基づく気象予報が外れて夕立に見舞われたとしても、命を危険にさらすことはありません。だからわたしたちは明日の予定を気象予報に委ねることができます。気象予報には雨か快晴かが託されています。もし仮に気象予報士が雨か快晴かではなく、科学的で緻密な統計によって危険か安全かを予報することになった場合、わたしたちは天気状況以上の集中力をもって来たるべき危険や安全に心の準備を怠らないことでしょう。論理的にはそうなるはずです。でもどうやらそうでもないようです。最近の自粛要請に対しては何かに自分の運命を託すのではなく国民それぞれが自分なりの感度で対応すれば良いのかもしれません。

ただ、何が危険かというのは一概には言えないものです。どこが危険か、いつが危険か、誰が危険か、何が危険か。統計ではなく自分の鼻で嗅ぐしかないのです。ラテンアメリカを中心にかつての途上国を旅して学んだのは、危険は自分で察知するものだということです。危険は察知するものですが、どうやら合理的かつ論理的な察しはあまり当てにならないようです。危険を察知することを英語では「危険の香りをキャッチする」と表現します。やはり嗅覚なんですね。動物が危険をキャッチするのは嗅覚を介してです。食べ物を体内に取り込む口が鼻と隣り合わせなのはそのためです。人間も例外ではありません。ただし、わたしたち人間だけには嗅覚をメタファーとして用いることが許されています。危険というのは具体的に酢豚や胡椒や蜂蜜のような匂いがするわけではないので。

ユークリッドが「幾何学に王道なし」と答えたことから派生した「学問に王道なし」という金言。さらにそれを「教育に王道なし」とボクが派生させたのは20年くらい前のことです。今だからこそボクが言えるのは「安全に王道なし」ということでしょうか。わたしたちは様々な分野で問題に突き当たるたびに、その筋の専門家をはじめとする権威に過剰に王道を求めすぎているのではないでしょうか。こうすれば成績が上がるという王道が無いように、こうすれば安全であるという王道も無いのかもしれません。

もしかすると、新型コロナウィルスに関しては感染学者や疫学者や医学者や医療関係者といった方々とは無縁な分野の専門家または市井の人たちの意見に耳を傾けた方が良いのかもしれません。疫学者ではなくそれこそ易学者でもいいし、冗談はさておき、獣医学者や地質学者でもいいと思うのです。許容の幅を確保しておくことが危険を察知する扉への近道であるというのが、ボクが旅の中で何となく感じとった水先案内人の言葉です。