『マージナリゼーションとしてのグローバリゼーション:序章』(ワニ先生の修士論文)

エアポートの出国審査カウンター。ここで出国スタンプを押された瞬間から、次の入国審査を受けるまで、われわれは何処にも存在しないことになる。まさに、「In-Between」あるいは「マージナル」な状態である。自分を証明する唯一の手段がパスポートとなる。この不思議な空間の大半を占めることになる大きな鉄の固まりの中に入ってしまえば、身体すらもが宙ぶらりんになってしまう。離陸した瞬間から、われわれはこの運命共同体の一員となる。ここで共有される空間は独特である。われわれは皆、互いにストレンジャー同士であるにも関わらず、ほんの一時だけ、妙な親密感を抱いてしまう。着陸態勢にはいると、緊張感が漂う。スムーズにランディングがなされると、あるヒスパニック系男性が「Llegamos!(着いたぞ!)」。動詞が一人称複数形(私たち)になっているのを確かめ、われわれが一つになっていることに安堵の胸をなでおろす。しかし、この時を最後にして、われわれは再びストレンジャーに戻る。この鉄のコンテナがゲートに着けられると、少しでも早く地に足をつけるために素早く立ち上がり、持ち込みの荷物をラックから取り出す。さきほどの一体感は何処へ行ってしまったのか……。

エアポートは、グローバルを最もストレートに感じさせる場所である。われわれは、エアーラインによって、どんなに辺鄙なヴィレッジとも結ばれる。それが目的地である必要などない。それゆえ、J.クリフォードの描く以下の風景は、現代のグローバル社会に特有なものとなる。

空港のトランジット・ラウンジとしての伝統的な田舎のヴィレッジ。ポストモダニティを想像するのに、これほど最適な光景はない。移動による、あるいは根源の無い歴史の新しい世界秩序なのである。それほど動きはないかも知れないが……[Clifford, 1997: 1]

ホテルのロビー・ラウンジ。そこには様々な思いを寄せた人々の集まりがある。ラウンジには、様々な動機でここに滞在するゲストが集う。しかし、誰一人として、そこに長居をすることはない。我々はその場に一時的に滞在して、すぐに方々に散らばってゆくのである。ホテルという空間は国籍を溶かし込む場所なのかもしれない。レセプションには世界の時間がすぐにわかる世界地図。電話をかけに行けば、そこには世界中の国番号が書かれた早見表が置いてある。

一歩ホテルの中に入ってしまえば、そこでは国籍などは問題なくなってしまう。ベルボーイもコンシェルジェも、われわれを「客」として扱う。それを確認できるのがルーム・キーの番号である。しかし、ホテルの定める記号に対抗して、われわれは、ちょっとした出会いにおいて、われわれなりの流儀で他のゲストと関わる。ほんの些細なことから話が始まる。どこから来たのか、これからどこへ行くのか。そこには確かに相互作用がある。ホテルにはホームの香りがする。ホテルは移動する人々に一大家庭を提供する。「Home for Tourists」。だがそれは束の間の、刹那の瞬間なのだ。我々もまた、ここから出ていかなければならない。移動の予感をラウンジは感じさせる。

エアポートのトランジット・ラウンジもホテルも、現代のグローバリゼーションの象徴である。ここでの描写には、本論が取り上げるグローバルやマージナルといった概念が、メタファーとなってあらわれている。しかしグローバルやマージナルは現実の世界においても、これらのメタファーが誇張とは思われないほどの勢いで、われわれの身近に浸透してきている。情報ツール、移動ツールなどの発展がめざましい今日において、グローバリゼーションに関する議論は分野を問わずに活発化している。社会学におけるグローバリゼーションの研究を整理しつつ、この章では、本論が意図する問題設定を、以下に順に説明していきたい。

グローバリゼーションという言葉は、時には、知識人らのジャーゴンと化してしまうため、その言葉のもつユニークさを堪能することはなかなか困難である。ここでは、その一般的な解釈として、グローバリゼーションが「何ではないか」ということから始めよう。

語源学的には、「ワールド(world)」という語が、「世俗的(worldly)」、「この世/来世(this / next world)」、「膨大な時間(worlds of time)」というように文脈依存度の高いものであるのに対し、グローバルという語は、比較的中立なものである。また、文法的には、「ワールド」に比べ、派生語の数が多い(globe, global, globally, globalize, globalization, globality)ことも指摘されよう。ここで注目すべき点は、何よりも、それが動詞への派生を可能にするということである。それは、存在というよりも生成を、状態というよりも過程を表現するのに適した言葉であり、決して、完成されたものとしての「誇大なナラティヴ」ではない、ということを意味する。

しかし、グローバリゼーションという言葉が学問のシーン(主に、国際関係論や国際経済学といった分野)に登場した背景には、「インターナショナル」という語に対する異議申し立てがあったのではなかろうか。インターナショナルという語は、文字通りに解釈するならば、「ナショナル」を前提にするものである。しかし、「ネイション」の意義を問うことが一つの大きなテーマとなるにつれて、例えば、多国籍企業や国際組織に始まり、国家を超えた金融システム、社会運動、技術交流などのように、ネイションを前提としつつも、ネイションを連結するという枠組みではそれらを捉えきれなくなったきた、という事情も考慮に値する。「インターナショナル」のエージェントが「ナショナルなもの」であるのに対し、グローバリゼーションのエージェントはより個別化する。グローバリゼーションとは、宇宙以外に残されたフロンティアは存在しないことを意味するものとなる。

一方、アカデミズムにおけるグローバリゼーションは、その解釈が様々であり、専門領域の数だけグローバリゼーションの概念が存在する。加えて、そのプロセスも多様であるため、J.ピータースは、複数形のグローバリゼーション(globalizations)を採用する[Pieterse, 1995: 45]。経済学では、経済的国際化、および、資本主義市場関係の拡大を、国際関係の領域では、国家間関係の密度の増加、および、グローバル・ポリティクスの発展を意味し、社会学の関心は、世界規模の社会密集状態と「世界社会の出現」であり、カルチュラル・スタディーズは、グローバルなコミュニケーション、マクドナルド化といった世界規模の文化的規格化、そしてポスト・コロニアル文化をその焦点とする[Loc.cit.]。

グローバリゼーションという概念のクレジットは、社会学においては、R.ロバートソンに与えられよう。ロバートソンは、文化レベルでのグローバリゼーションに言及し、次の二通りの定義を提示している。

グローバリゼーションの概念は、世界の縮小と、一つの全体としての世界という意識の増大の双方に言及する。/(中略)/20世紀におけるグローバルな具体的相互依存関係およびグローバルな全体の意識の加速に沿っている。[Robertson, 1992=1997: 19]

この定義の第一の側面である「グローバル規模の縮小」は、従属理論や世界システム論を思い起こさせるものである。それは、国家システム間の相互依存度が、貿易、軍事同盟、支配、それに文化的帝国主義などを媒介にして、急速に高まっていることを意味する。ロバートソンは、グローバリゼーションを近代の帰結と捉えるギデンズを批判[Ibid.: 13]、さらには、グローバルな縮小が16世紀以降の資本主義的な生産様式の拡大によって生じたとするウォーラスティンの考えをも批判[Ibid.: 9]し、グローバリゼーションの歴史はさらに遡ることを強く主張している。ロバートソンは、グローバリゼーション定義の第一の側面よりもさらに重要な側面として、比較的新しい現象である「グローバル意識」を強調する。この「グローバル意識」とは、諸個人の意識体験が、ローカルやナショナルなセクターに限定されたものではなく、世界全体に拡大したことをいう。それは、例えばマス・メディアや消費といった文化的現象のみをいうのではなく、われわれが現代において直面する問題に対して、何かグローバルな方法によって再定義あるいは相対化するような状態をいう。われわれは、政治的問題を「世界秩序」の観点から再定義する。経済問題は「国際的な景気後退」といった観点から、市場問題は「世界市場」を対象にした商品の観点から、宗教問題は「普遍主義」の観点から、市民権は「人権」の観点から、スポーツは「オリンピックに出場することに意義がある」という観点から、あるいは、大気汚染などは「地球を救う」という観点から再定義されるのである。

世界システム論的な「物質的」相互依存関係の高まりに併せて、このような「グローバル意識」は、世界が一つのシステムになるという可能性を示唆する。ロバートソンは、「世界はますます結合(united)されてきたが、それは、機能主義的なナイーヴな解釈である統合(integrated)ではない」[Robertson, 1990: 18; 1992=1997: 55]と述べている。それは、一つのシステムではあるが、常にコンフリクトに満ち溢れ、普遍的な合意によって支えられるものではない。

ここで注目すべき点として、ロバートソンは、グローバリゼーションを構成する要素を四つに分けて論じている。それらは、①個々の自我(individuals)、②国民国家的な諸社会(national societies)、③諸社会の世界システム(system of international relations)、そして、④人類としての人間(humankind)である[Robertson, 1992=1997: 57]。これらの要素は、一つとなって「グローバルな場」を構成し、それがグローバリゼーションを分析する上での対象となる。以下は、それらの関係を描写したものである[Robertson, 1992: 25-31]。まず個人は、国家社会の市民として定義されるが、それは、諸社会との関係においてであり、人間性の観点から捉えられるものである。国家社会は、個人に対して問題状況的立場にあり、自由と統制が鬩ぎ合うこととなる。この自由と統制という概念は、それ自体、諸社会のシステムを横断するものである。国家社会は個人に市民権を与えるが、それは人権という見地に根差したものである。諸社会の世界システムは、国家社会の主権と関わり、諸個人に規準を設定し、人道的目標を提供する。人間性は、諸個人の権利という観点から定義され、それは国家社会によって市民権として表出され、世界システムを通じて施行される。

これら四つの要素間による相互作用は、それぞれの準拠点において、個別の発展を遂げる。個々の自我においては個人化が進行する。それは、ローカルの集合体における従属的部分としてではなく、全体としての諸個人のグローバルな再定義を意味する。社会レベルにおいては、近代国民国家が唯一の社会形態となる。世界システムのレベルでは、国家間の相互依存度が高まる。人類としての人間のレベルでは、人間化、つまり、機会と権利に関する人種、階級、ジェンダーの区別化の減少が促進される。これらが一体となって、グローバリゼーションの過程が確立される[Robertson, 1992: 282-286]。これら諸過程は、諸社会における内的ダイナミズムとは独立した形で進行するわけだが、それは、グローバリゼーションが自律した一つのロジックを獲得しているからである[Robertson, 1990: 28]。

ロバートソンは、グローバリゼーションは決して新しい現象ではないとしながらも、近代化がそのプロセスに拍車をかけたことには同意している。「グローバル意識」は極めて現代的な現象である。殊に、中国、旧ソ連、東欧で起きた一連のエピソードによって、1990年代は「グローバル不確実性時代(global uncertainty)」の幕を開けた[Ibid.: 16]。以下に記すのが「グローバリゼーションの五つの段階」である。

(Ⅰ)発生段階(the germinal phase)
15世紀初期から18世紀中期にかけてヨーロッパで隆盛。国家共同体の初期的成長期。個人概念と人間性の強調。太陽中心説と近代地理学の幕開け。グレゴリオ暦の普及。

(Ⅱ)初期段階(the incipient phase)
18世紀中期から1870年代にかけてヨーロッパで隆盛。均質的で単一的な国家への移行。形式化した国際関係概念、市民的諸個人、そして人間性の具体化。国家間あるいは通国家間の規制やコミュニケーションに関連した協約や機関の急増。非欧州社会による「国際社会」への参加をめぐる問題。国家主義/国際主義をめぐる論争。

(Ⅲ)離陸段階(the take-off phase)
1870年代から1920年代中期。「好ましい」国家社会についての「正しい概説」に関する、グローバルな概念化の進展。国家的および個人的アイデンティティをめぐる論争。幾つかの非西欧社会による「国際社会」への参加。人間性に関する思想の国際レベルでの形式化とその遂行。グローバルなコミュニケーションの数と速度の急成長。普遍(原理)主義運動の隆盛。オリンピックやノーベル賞といったグローバル規模な競争の発展。世界時間と、グローバル規模に近いグレゴリオ暦の採用。最初の世界大戦。国際連盟発足。

(Ⅳ)ヘゲモニーをめぐっての闘争段階(the struggle-for-hegemony phase)
1920年代中期から1960年代中期。グローバル過程に関して、離陸段階において制度化された微妙な概念をめぐる論争。ホロコーストや核爆弾で注目を集めた、人間性の本質への関心。国際連合発足。

(Ⅴ)不確実性段階(the uncertainty phase)
1960年代に始まり1990年代に入って危機的傾向を提示。1960年代における、第三世界の参加とグローバル意識の高まり。月面着陸。脱物質的価値観。冷戦の終結と、核兵器の拡散。グローバル組織および運動の急増。多文化的・多民族的問題に直面。ジェンダーエスニシティ、人種による、個人概念の複雑化。市民権。国際システムの流動化。二極対立の終焉。種としての人類への関心。コミュニティの増加。世界市民社会と世界市民権への関心。グローバルなメディア・システムの強化。

                                                                             [Robertson, 1990: 26-27]

現代のグローバリゼーションは、ロバートソンによれば、不確実性の段階にある。この段階をそれ以前の諸段階と区別するのは再帰性(reflexivity)にある、とロバートソンは考える。「世界は、単に『それ自体の中における(in-itself)』存在から、『それ自体のための(for-itself)』存在である問題あるいは可能性へと移行した」[Ibid.: 23]。多くの企業や環境論者による標語「グローバルに考えよう(Think globally)」*1が意味するものは、地球市民が地球を一つとしての全体、あるいは一つの場所として捉え始めたことである(再帰性はギデンズから借用した概念である)。再帰性によって、人々は世界を一つのものとして考え、結果的において、世界は一つのものとして捉えられるようになる。しかし、ここでいう「一つ」とは、結合(united)であって統合(integrated)ではない。

ロバートソンによるグローバリゼーションは、①結合によるグローバル意識をもたらし、②文化的なおかつ再帰的な性質を有し、③それ独自のロジックによって支えられているのである。しかしこれによって、文化的分裂状態が地球上から完全に消滅したわけではない。諸宗教の個別主義や原理主義的動向という事実は、それを如実に物語っている。ところが、そのような矛盾も、グローバル化された世界の文化的異質性の現れがもたらす「相対主義化」[Robertson, 1992: 129-37; 1992=1997: 86]と捉えれば、納得がいく。グローバリゼーションは、他者の鏡に照らし合わせたコントラストを可能にするからである。そこで、グローバリゼーションが有すもう一つの特質である④ローカリゼーション(localization)が指摘される。

グローバリゼーションは、通常、マクロ社会学が取り扱う大規模な現象と捉えられるが、ロバートソンは、それは誤りであることを強調する。グローバリゼーションという概念は、しばしば、エスニック・ナショナリズムに代表されるローカリズムを圧倒する意味で用いられるが、このような解釈は、グローバルとローカルの相補的関係に目を背けている、とロバートソンはいう。「ローカルと呼ばれるものは、それが、ローカルを『越えた(トランス)』、あるいはそれ自体を『超えた(スーパー)』レベルで構築されるという事実を無視するものである」[Robertson, 1995: 26]。外部とのつながり無くしては、ローカル性の促進はあり得ないからである。時間と空間の関係をグローバリゼーションに結びつけようとしたギデンズ(詳細は後述)とは異なり、ロバートソンは、グローバル性(globality)の概念を通じて、空間の問題を独立したものとして提起する。グローバル性を強調することによって、グローバリゼーションをモダニティの帰結と捉えることの弱点を回避するのである。

ロバートソンは、グローバリゼーションの問題は、「異質化か同質化か?」ということを問うものではないとする。それらは相補的な関係となる。つまり、グローバリゼーションとローカリゼーションは対立するものではなく、グローバルな空間を媒介として相互に刺激し合うものとなる。ロバートソンはこれを「グローカリゼーション(glocalization)*2」[Robertson, 1992=1997: 16; 1995: 28]とした。それゆえ、しばしばローカルの名において言及されるものは、本質的には、グローバルの文脈に即したものとなる。「世界の縮小としてのグローバリゼーションには、ローカルとの関係、さらには、『ローカルの創造』および『想像のローカル性』が含まれるものとなる」[Robertson, 1995: 35]。例えば、世界中に拡がったインターナショナル・ユースホステル運動が挙げられる。この運動は、国際的あるいはグローバル基盤で組織されたもので、「自然へ帰れ」的な共同体価値を育成するものである。ネイティヴや原住民の権利やアイデンティティ保護の問題、土着のローカル医療を復活、あるいは必要とあらば発明をも試みるWHOの活動[Ibid.: 37]などはみな、グローカリゼーションである。

グローカリゼーションは、グローバリゼーションに関する最も一般的な解釈を確証するものである。それは時には、「異質化と同質化」、「多様化と均質化」、「流動(flux)と固定(fix)」、「流れ(flow)と封鎖(closure)」、そして、「ローカルとコスモポリタン」といったセットによっても言い表すことができよう。それらは、文化の共時化と同様に文化の拡散を、グローバルと同時にローカルを、脱アイデンティティと同時にアイデンティティを語る、相互作用的な概念群となる。

グローバリゼーションのこのような解釈を前提としつつも、本論はそれに対して、マージナリゼーションという側面からの考察を試みる。「マージナリゼーション」という言葉は、「マージナル化する(marginalize)」という語から派生する、本論における造語である。これは社会学においてはパークによって提示された「マージナル・マン」を起源とするため、一つの概念として捉えられる。本論では、マージナルという言葉が、マージナリティあるいはマージナル性、そしてマージナリゼーションというように形を変えながら、度々、使用されることとなるが、形がそれぞれに異なるのには意味がある。マージナリゼーションという言葉に託された意味とは、それが、グローバリゼーションがグローバルな過程を意味するのと同様、マージナルな「過程」を強調しているということである。

それでは、マージナリゼーションとしてグローバリゼーションを捉えるとはどういうことか。この問いに対しては、二つの答えが用意されている。まず第一に、マージナルのグローバル化が挙げられる。パークらによるマージナル・マン理論における「マージナルであること(マージナリティ)」は、グローバリゼーションおよびポストモダン(本論は、ギデンズのモダニティ論に対してグローバル性を強調する点に関しては、ロバートソンを支持する)の潮流に伴って、グローバル規模で加速した。ロバートソンの主張する現代のグローバリゼーション(不確実性段階)は、一つの社会病理であったマージナル・マンの問題をスタンダードなリアリティとして許容するのである。それは、マージナリティがグローバリゼーションの挑戦に応える一つの過程となる。

第二に、それは生成の過程を意味するものとして用いられる。ロバートソンは、グローバル意識という現象によって個人のフロンティアをグローバルに拡張し、さらにはグローカリゼーションによって、グローバルとローカルを結合させて世界を一つの「フィールド」として捉えたが、個人主義の現代的構成に関しては十分な考察がなされていない。個々人はグローバリゼーションのプロセスの一部である[Robertson, 1992=1997: 140]と主張しながらも、その考察を十分に発揮できなかったことの理由として、パーソンズAGIL図式を彷彿とさせる「グローバリゼーションの四つの構成要素」に関心が傾斜し過ぎていたことが考えられる。繰り返すと、四つの構成要素のセットが、グローバリゼーションの「場」と解釈されていた。ロバートソンはローカルのパースペクティヴをミクロ社会学の領分としているが[Robertson, 1995: 25]、本論は、その関心を諸個人にとっての意味と経験に引き寄せながら、グローバリゼーションを微視的に捉える、「ミニ・グローバリゼーション」をテーマとしたものとなる。

グローバリゼーションによって、われわれの経験世界は、遠隔地のローカル、あるいはそのようなローカルには還元されない複数のグローバル・フィールドが入り込む交差路となる*3。そこでは、新たなローカルが生み出され、文化や国家といった枠組みは、地図上において、あるいは「四年に一度」だけ、さらには追憶においてのみその実体が確認されることとなる。交差路においては、どのような偉大なる文化も、ブリコラージュとなりメランジュと化した新たな「文化」の挑戦を受ける(contested)こととなるのである。マージナリゼーションは、そのようなブリコラージュやメランジュを生み出す、そしてグローバリゼーションを促す、一つの大きな源泉となる。

マージナリゼーションとしてのグローバリゼーションは、このように、マージナルのグローバル化と、グローバリゼーションの現場におけるマージナリティの形成過程に着目することで、シンボルのもつ多元性をいま一度認識した上で、諸個人の経験世界に接近しながらグローバルへのアプローチを試みる、一つの「下からのグローバリゼーション」となる。

それでは、マージナリゼーション、つまりマージナル化とは何を意味するのか。「マージナル化する」とは、通常、「(社会の進歩から取り残したり、局外の地位に置いたりして)社会から疎外する、アウトサイダー化する、のけ者にする、無視する」ことなどを意味する。これは一般的な解釈としては、欄外を意味する「マージン」と関わる定義である。

本論は「マージナル」をそのようには捉えない。マージナルとは、マージナル・マン理論に即して解釈するならば、中心から捉えた単なる「欄外」ではなく、それが複数の欄外によって接合される状態を意味する。そのため、そのようなマージナリティを引き起こす接触(コンタクト)もサブ・トピックとして取り上げられる。グローバリゼーションの原動力となる、個別主義的なローカル性とは、ローカルと「他者との出会い(エンカウンター)」およびコンタクトによって生じる。マージナル・マン理論が問題にするマージナリティは、そのような「コンタクト・ゾーン(contact zone)」が産出されたものとして、あるいは、そこで産出されるコンディションを一つのフレームに収めるための概念となる。

ところがマージナリティは、流動的で壊れやすいものであるために、実証することが極めて困難なものとなる。しかしながら、マージナリティの意義とは、それが潜在的にはいつでもマージナルでなくなる可能性を秘めており、また、現代のグローバリゼーション段階においては、他者との出会いが、常に、マージナリティを生み出す契機となる点にあるといえよう。マージナリゼーションとは、マージナリティのそのようなコンティンジェンシーを的確に表現するための言葉となる。

本論の第1章においては、マージナル・マン理論のこれまでの展開を、ストーンクウィストの著書『マージナル・マン(The Marginal Man)』を中心に、その近接概念であるジンメルストレンジャーも含めて、その概要をまとめる。本論では、マージナル・マン理論のテーマを三つに分けてその詳細を各章で論じていくつもりである。それらは、①アイデンティティの問題、②移動の問題、③文化の問題として設定される。これらは、それぞれに個別のものとして議論することのできるほど大きなトピックである。これまでにも、十分とは言えないにしても、多くの論者によってその知が蓄積されてきた。本論はそれらを、カバー可能な範囲内において、できるだけ多く動員させながら、「マージナル」から「マージナリゼーション」への系譜と位置づけながら、あくまでも「マージナリティ」に焦点を定めて議論を進行していく。

第2章の「アイデンティティとマージナリゼーション」においては、アイデンティティとマージナリティを相補的な関係として位置づけながら、これまでアイデンティティの問題として取り上げられてきた議論に対して、マージナリティの光に照らしてアイデンティティ論を考察する。ここにおいて、マージナリティが「何であるか」、そして、「何でないか」を、これまでの「周辺」や「境界」に関する研究に触れながら、明確にしていきたい。アイデンティティ論は、近代から現代(仮にポストモダンとしておく)へと時代が変動する過程において、その解釈が「同定的」なものから「流動的」なものへと移行していることは、一般的な解釈として、多くの論者によって支持されている。本論では、「流動性」の意味を、独自の《アイデンティティ/マージナリティ》型式と関わらせながら、グローバリゼーションにおけるマージナリゼーションの意味合いを考察する。

近代から現代へのアイデンティティ観の変遷を理解するには、「流動性」の意味するところを明確にすることから始まろう。「流動性」とはいかなることを指すのであろうか。第3章「移動とマージナリゼーション」は、近代から現代へのアイデンティティ論の移行を、「流動性」の解釈の変容と捉え、そのことを考察するために、「移動」という変数を加えてアイデンティティ論の流れを読み直すこととする。移動はこれまで、社会学においては、ジンメルやパークに始まり、それほどスポットライトを浴びてこなかった。最近のメルッチやバウマン、そしてわが国においては新原などが、移動をアシスタントからメインの地位に築き上げたことは評価に値しよう。さらには、人類学においてクリフォード、カルチュラル・スタディーズにおいてギルロイなどが、移動のレトリックに関して、大きな進展をもたらしている。本論は、移動を定点と定点を結ぶ手段とは捉えずに、移動の途上に《アイデンティティ/マージナリティ》を導入することを試みるつもりである。

アイデンティティ観を結合した移動の変容を媒介として、人々のコンタクトのあり方も異なった様相を呈する。そのため、文化の意義が問われることとなる。文化とアイデンティティの問題は、グローバリゼーションをめぐる議論においては、パラレルに進行しているものと思われる。マージナル・マン理論においては、マージナル・カルチュアの問題が浮上したが、現代のグローバリゼーションに即してマージナリティを考察することの意義とはいかなるものか。このことに関しては、第4章「文化とマージナリゼーション」にて、明確にする。

全章を通して、マージナリティ、マージナル、マージナリゼーションは鍵概念となる。次章では、マージナル・マン理論とグローバリゼーションをつなげることを試みるわけだが、それらはまず、「マージナル・マン理論」を整理することから始まる。

 

*1:「グローバルに考えよう、ローカルに行動しよう(Think globally, act locally)」という標語は頻繁に使用されるものであるが、ロバートソンは、ますます多くの人々が「グローバルにかつローカルに、考えかつ行動する」ようになっているという[Robertson, 1992=1997: 16]。

*2:ロバートソンは「グローカリゼーション」に関して、日本語の「土着化(dochakuka)」という言葉に刺激を受けたものであるとする。「土着化」は「土地に住みついて現地人となること」という意味の他に、ここでは、「ローカルの状況に適応するためのグローバルな視点」という意味で用いられている。ロバートソンが刺激されたのは後者の意味においてである。それは、日本の企業によるグローバルなローカル化を唱えるスローガンとして、1980年代にジャーゴン化したビジネス用語である。[Robertson, 1995: 28]

*3:ロバートソンは、ホームをローカルから引き離す、あるいは、ローカルをグローバルのミクロな兆候として捉えるE.バリバールを援用しながらローカル・レベルでの多様性の問題を取り上げ、さらには、L.アブ=ルゴッドの「ハーフ概念(halfies)」やU.ハナーツの「グローバルなハイブリッド化とクレオール化」に言及してはいるが、それ以上の考察には踏み込まない。[Robertson, 1995: 39-40]